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【2024/10/06 04:49 】 |
トーキョースパムCHANNKOSUMOと吉原宏太
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トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう

トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう
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【2010/11/18 22:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとエアロスミス
├─≠ョ─ヵラス 「アルマゲドン」
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 1960年代のブリティッシュ・ロックというフィルターを通して自国の音楽を表現しようとした。
【2010/11/17 20:11 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと美空ひばり
├─≠ョ─ヵラス 国民栄誉賞
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。数々のヒット曲を歌い、銀幕スターとして多数の映画に出演した。昭和の歌謡界を代表する歌手、女優である。
横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。女性として初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長150cm。
目次 [非表示]
1 略歴
1.1 幼少期
1.2 デビュー
1.3 師・川田晴久との出会い
1.4 全国的人気を獲得
1.5 三人娘の時代
1.6 小林旭との短い結婚・離婚後
1.7 母・喜美枝との二人三脚時代
1.8 兄弟とひばりの苦悩
1.9 病魔との闘い
1.10 昭和を代表する歌手として
1.11 永遠に生き続けるひばり
2 エピソード
3 ひばりの作詞
3.1 生前に書き残し没後リリースされた詩
4 息子・和也
5 ひばり役を演じた女優
6 主な代表的作品
6.1 ひばり代表曲・シングル売上
6.2 主な出演映画
6.3 主なシングル作品
7 ドキュメンタリー
8 テレビ番組
9 その他
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
略歴 [編集]

幼少期 [編集]
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲、流行歌を唄うことの楽しさを知る。
1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。
デビュー [編集]
終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き唄わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。
1946年、NHK「素人のど自慢」に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「上手いが子供らしくない。」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないとつげた。1946年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員をしていた古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の唄を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールをもらった。
1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、現在の大豊町でひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックと激突し側転、崖に向かって落下していった。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」とどなったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
師・川田晴久との出会い [編集]
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[1][2]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢され、その後、川田一座に参加。大スターへの道が拓かれた。川田はひばりをそばに置いて可愛がり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、唄い方が一致する結果が出ている。ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っている。川田一座では当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[3]。 同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。
全国的人気を獲得 [編集]
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得る。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。
1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなり、ひばりは押しも押されもせぬ絶対的な存在となった。
1951年、松竹『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなるジンクスが生まれた。
三人娘の時代 [編集]
1954年、NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇[4]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女は山形県出身で美空ひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。また紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばりは既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、三代目山口組組長の田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
小林旭との短い結婚・離婚後 [編集]
1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならず、またひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍に居て欲しい願いは叶わず(また小林も勝手に借金をするなどトラブルを起こしていた)、別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。田岡が間に入り、ひばり母子の意思を小林に告げ、離婚会見を開かせた。小林はその場で「理解離婚」とした上で、「未練はいっぱいある。みんなの前で泣きたいくらいだ」と語った。その後、別に開いた会見でひばりは「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。なお小林旭の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとの事)。
離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』[5]、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演で話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
母・喜美枝との二人三脚時代 [編集]
1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番上手くプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。
1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当。紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』。
この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。
兄弟とひばりの苦悩 [編集]
1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により[6]、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、パッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。
この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した[7]。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった[8]。
1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌や歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』<1983年>)、小椋佳(『愛燦燦』<1986年>)、イルカ(『夢ひとり』<1984年>)等、当代の話題のアーティスト / クリエイター等とのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。
他方、1980年代に入り、1981年に実母の喜美枝と父親の代わりを担っていた田岡一雄が相次いで亡くなったのに続き、1982年には「三人娘」以来の親友だった江利チエミ、さらには2人の実弟だった哲也(1983年)と香山武彦(1986年)に次々と急逝される悲運が続く。ひばりは哲也の実子である加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒すために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。
病魔との闘い [編集]
1987年4月、公演先の福岡市で倒れ緊急入院、慢性肝炎及び両側大腿骨骨頭壊死と診断され、8月まで福岡市中央区の福岡県済生会福岡総合病院にて療養。同年8月3日に退院し、10月に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングより仕事に復帰した。
1988年4月11日、開場間もない東京ドームにて「不死鳥コンサート」を実施。脚の痛みに耐えながら計39曲を熱唱し、完全復帰であることをファンにアピールした。
1989年初頭、人気作詞家・秋元康が作詞、見岳章が作曲した『川の流れのように』を発表する。しかしこの時のひばりの肺は病に冒されていた。同年2月、福岡県北九州市での公演(これが生涯最後のステージになった)後に検査入院。一旦は退院し、同年3月には、ニッポン放送での10時間の特集番組へ生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。
そのラジオ生放送終了直後、体調が急変したために順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院する。このため、同年4月に予定されていた、横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止となった。そして、復帰の夢を果たすことなく、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のためこの世を去る。52歳没。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。
同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。葬儀では王貞治が弔辞を読み上げ、北島三郎、森昌子などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区の横浜市営日野公園墓地にある。
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
昭和を代表する歌手として [編集]
没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(現在歌手としては藤山一郎と二人だけ)し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わる事になった。
永遠に生き続けるひばり [編集]


福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像
1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客が、ひばりを偲んで訪れる。
1993年、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクションに変更し、2008年4月26日に京都嵐山美空ひばり座と改名のうえリニューアルオープンした。
2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
死後20数年を経た現在も尚、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する。ちなみに国内歌手レコード売り上げ一位は三橋美智也の1億6000万枚である。
エピソード [編集]

大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役(東京公演では津川雅彦が演じた役)を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中の大村崑が抜擢されたが、大村が登場する度に馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れ大村は下ろされる。(その後その役は堺駿二が務めた)。大村はその時の悔しさを忘れなかった。それから年月が経ち、1970年9月に新宿コマ劇場で香山武彦と共演した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。ここぞとばかりに当時の事を母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今までたくさんいじめられてきたのよ。貴方は私だけでしょ。」と慰められる。すると、ひばりが大村の為だけに耳元で「柔」を熱唱。それに感激した大村は全ての事を水に流したと言う。その時、ひばりから贈られたお守りは今も肌身離さず大切にしている。
ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特に王貞治(プロ野球選手)とは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、相肝照らす仲であった。
一部週刊誌にて、在日朝鮮人であるかのような記述があったが、同年に出版された週刊文春によるとこの説には根拠がなく都市伝説であるとされている。
デビュー当初のサトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、逝去の直後には日本的慣例に関して小林信彦が批判を発表した。もっとも、才能を全面的に否定するものは少なく、小林の批判も没後の一億総服喪的な過剰報道に対する反発から書かれたものであり、ここではモダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問が呈されている。
ひばりの作詞 [編集]

彼女が作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌い、『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は島倉千代子に提供された。
生前に書き残し没後リリースされた詩 [編集]
『夢ひとり』をイルカが作曲し、リリースしている。
『草原の人』をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年CD化)。筆名「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。
息子・和也 [編集]

「加藤和也 (ひばりプロダクション)」を参照
1980年代、少年期の加藤和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。
同様に和也がとんねるずの大ファンだった事から、和也の誕生会にひばりがとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。更に『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合える程の友人となった。
2010年現在、ひばりプロダクションの代表取締役社長を加藤和也が勤める。
【2010/11/13 20:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
カフーの踊り
カフー(Cafu、本名:Marcos Evangelista de Moraes、1970年6月7日 - )は、ブラジルサンパウロ出身のサッカー選手である。ポジションはディフェンダー(右サイドバック、右ウィングバック)。
「カフー」はニックネームで、1970年代に活躍したカフリンガ(Cafuringa)という名前のサッカー選手に由来する。長らく活躍したイタリアでは振り子を意味する「イル・ペンドリーノ(il Pendolino)」という異名で呼ばれたこともあった。また「右サイドの支配者」という異名でも呼ばれる。
目次 [非表示]
1 来歴
2 ブラジル代表として
3 評価・プレースタイル
4 所属クラブ
5 個人成績
6 獲得タイトル
6.1 ナショナルチーム
6.2 クラブ
6.3 個人タイトル
来歴 [編集]

カフーは1988年、18歳の時に地元サンパウロのサンパウロFCに入団した。入団後にサイドバックにコンバートされ、1993年のトヨタカップ制覇に貢献するなど活躍した。1994年のワールドカップにおける活躍が認められてスペインリーガ・エスパニョーラのレアル・サラゴサに移籍した。しかし、レアル・サラゴサでは機能せず1年で退団し、再び地元サンパウロのパルメイラスに移籍することになる。
1997年、今度はイタリアセリエAの強豪ASローマに移籍。この移籍は前回の欧州移籍と違い成功し、ASローマの18年ぶりとなるスクデット制覇に貢献するなど主力として活躍した。


ミラン時代
33歳となった2003年夏にはASローマを退団し、日本のあるクラブへ移籍するという報道が流れたが、最終的にはセリエAの強豪チームであるACミランへ移籍した。ACミラン移籍後は右サイドバックのレギュラーとしていきなり2003-04シーズンのACミランのスクデットに貢献するなど、主力としての変わらぬ活躍を見せることになる。また、この年にペレの選んだ偉大なサッカー選手100人、「FIFA 100」に選ばれている。
2006年まで長くUEFAチャンピオンズリーグのタイトルは獲得できずにいたが、UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07で19年目にして初の栄冠に輝くなど、ベテランとなっても衰えぬ活躍を見せていたが、2007-08シーズンの終了後、ACミランとの契約が満了し退団した。
ブラジル代表として [編集]

1990年より、衰えの見えていたブラジル代表の右サイドバックであるジョルジーニョの後継者として期待され、1990年9月12日のスペイン戦で代表デビューを果たした。その後の1994年のワールドカップ決勝では、試合中のジョルジーニョの故障に伴い、途中交代して優勝に貢献した。以後、代表のレギュラーとしての地位を確立し、1998年、2002年のワールドカップでもレギュラーとして出場している。
同じ時期に左サイドバックのレギュラーとして起用されていたロベルト・カルロスとは攻撃的なサイドバックコンビとして、果敢なオーバーラップを見せていた。また、長らくキャプテンを務め、ブラジル代表の精神的支柱でもあった。
2006年のドイツ大会では準々決勝のフランス戦で、ブラジル代表は中盤を封じられた為、ボールがロベルト・カルロスとカフーに集まったものの、二人は共に低調なプレーに終始し、ボールを奪われるシーンが目立ったことから、ブラジル本国などでは敗退の大きな原因として槍玉に挙げられた。これ以後、カフーは年齢のこともあり、代表招集されることはなくなっている。(長らく両サイドバックとして活躍してきていたロベルト・カルロスはこのワールドカップでの代表引退を表明しており、やはり以後招集されていない)
現在のところ、代表通算キャップ数は142を数えており、これはブラジル代表における歴代最多記録である。また、1994年、1998年、2002年、2006年の4度のFIFAワールドカップに出場しているが、このうち2006年を除く3回はいずれも決勝まで進んでおり(優勝2回、準優勝1回)、決勝戦を3度経験したサッカー史上唯一の選手である。
評価・プレースタイル [編集]


この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。
サイドバックとしては抜群のタイミングでオーバーラップを見せ、周りの選手のパスコースを作り、攻撃の組み立てにも参加する、攻撃型のサイドバックとして世界的に有名であった。また、ブラジル代表ではサイドバックでありながら、フォワードを追い越すようなオーバーラップを見せ、ブラジル代表の攻撃の一翼を担ったほどである。特に全盛期はスピード、タイミング、スタミナを兼ね備えていたことから、右サイドバックの代表的な選手として「右サイドの支配者」という異名を奉ぜられていた。また、守備の評価が低いロベルト・カルロスと違い、カフーは守備でも高い能力を兼ね備えており、攻撃だけではなく守備での貢献度も高い。
【2010/11/10 00:54 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ジエゴの踊り
ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ(DIEGO Ribas da Cunha、1985年2月28日 - )はブラジル・サンパウロ州リベイラン・プレト出身、ブンデスリーガ1部・VfLヴォルフスブルク所属のサッカー選手。ポジションはMF。
目次 [非表示]
1 経歴
2 エピソード
3 人物・プレースタイル
4 所属クラブ
5 個人成績
6 タイトル
7 脚注・出典
8 外部リンク
経歴 [編集]

サントスFCで17歳の時にキャリアをスタートさせ、程なくして頭角を現した。すぐにクラブでのレギュラーを確保し、一歳年長のロビーニョとともに大活躍。翌年には18歳にしてA代表に招集され、2003年、4月30日メキシコ戦でフル代表デビューを果たす。2004年8月にはFCバルセロナへ移籍したデコの後釜としてスーペル・リーガの名門FCポルトに引き抜かれる。その年の冬にはFCポルトの一員として来日、トヨタカップに出場し、優勝に貢献した。しかし、FCポルトで過ごした2シーズンをトータルで見ると、初の国外挑戦ということもあってか、適応に苦しみ前評判通りの活躍を見せることは出来なかった。
2006年8月にはドイツ・ブンデスリーガのヴェルダー・ブレーメンに移籍した。移籍金は推定約600万ユーロ。2005-06シーズンまで所属していたヨアン・ミクーの後継者として活躍が期待された。2006-07シーズンはリーグ開幕からチームの攻撃陣の中心として、ブレーメンを前半戦冬の王者(ヘルプスト・マイスター)に導いた。自身もブレーメンでのプレーが評価されセレソン復帰を果たした。シーズン終了時にドイツ年間最優秀選手に選ばれた。
2009年5月、イタリアのユヴェントスFCに移籍することが発表された。移籍金は2450万ユーロで、向こう5年間のユヴェントスの成績により最高250万ユーロが追加される。しかしシーズン序盤からセリエAへの対応に苦しみ不調が続いていた。
2010年8月26日、ジュゼッペ・マロッタGMとの確執が昂じ、ドイツのVfLヴォルフスブルクへ半ば放出という形での移籍が決定した。移籍金は1550万ユーロで4年契約。
エピソード [編集]

背番号は10を好む。ユヴェントスに移籍した際、10番はすでにチームの顔でありキャプテンであるアレッサンドロ・デル・ピエロがつけていたため、28番を選択した。これは2+8=10であることと、自身の誕生日が2月28日であることに由来する[1]。
ポルト時代に、トヨタカップにてPK戦の最中に退場処分を受けた(キック成功後に相手GKに暴言を吐いたため)。
2010年からユヴェントスを指揮するルイジ・デル・ネーリ監督は新シーズンにジエゴをセカンドトップで使用することを明言し、ジエゴのヴォルフスブルクへの移籍を拒んでいた[2]。また、2009-2010シーズンにユヴェントスを指揮したチロ・フェラーラはジエゴの移籍について「私ならジエゴを売らない」と言及している。
人物・プレースタイル [編集]


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豊富なアイディアとパスセンスで攻撃を組み立てるファンタジスタ。ノールックパスやヒールパスを駆使する。そのプレースタイルから一時期はジーコの再来とも呼ばれた。身長173cmと若干小柄だがフィジカルは比較的強く、運動量も豊富で攻守のあらゆる場面に顔を出す事ができる「現代的ファンタジスタ」の一人とも呼ばれる。
ドリブルとそれを駆使したボールキープも得意とするが、コンディションの上がらない時は無闇に敵陣に切り込んだ挙げ句ボールを奪われることもある。また、セットプレー、特にゴール前でのフリーキックの精度はすばらしく、低く速いボールを蹴ることができる。
普段はおとなしい性格だが、ピッチ上ではその性格が変貌。闘志を剥き出しにしてプレーする故か、エキサイトのあまり相手チームの選手や審判に食ってかかる事もある。
【2010/11/10 00:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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