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【2024/10/06 09:40 】 |
チェン・ウェイン
チェン・ウェイン(陳 偉殷、1985年7月21日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
2008年に登録名を本名から「チェン」に変更している。
目次 [非表示]
1 来歴
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
5 脚注
6 関連項目
来歴 [編集]

高校時代には公式戦で22奪三振を記録するなど活躍。国立体育学院学生の身分のまま、中日に入団した。
2004年は、一軍昇格をしながら登板機会は得られなかった。アテネ五輪では台湾代表にも選出された。
2005年にプロ初セーブを記録。この一軍での実績が認められ母国での兵役期間が短縮され、同年オフに2週間の兵役を完了。
2006年シーズン途中に骨折してしまう。2007年は前年の骨折の影響からリハビリ期間を設ける意味合いも兼ねて育成選手として契約。
2008年は骨折が完治し、再び支配下選手として契約。4月2日の対巨人戦で山本昌が負傷降板した後の急な登板であったものの来日初勝利。その後はチーム事情から中継ぎでの登板が多かったが、7月16日の対巨人戦で先発での初勝利を挙げている。なお、北京オリンピックの台湾代表として日本国内球団所属選手からは唯一代表に選出された。9月22日の対ヤクルト戦では4安打に抑え、プロ初の完投・完封を記録。
2009年は速球のキレが冴え、ストレートの被打率は藤川球児(阪神タイガース)を抑え球界トップの.183をマークした。開幕3戦目の4月5日の対横浜戦で今季初先発し、6回3安打無失点で初勝利を挙げた。8月の月間成績は4試合33イニングで1完封を含む3勝0敗、防御率0.82で、自身初の月間MVPを受賞した。この年の月間防御率は、最も悪かった9・10月でさえ2.15であり、年間通じて安定感を維持した。クオリティ・スタート(6回3失点以内)を19回記録したが、そのうち11回で勝ち星がつかないなど打線の援護に恵まれず、6月の故障離脱もあり8勝に終わった。二桁勝利には届かなかったものの、シーズンを通して抜群の安定感で、防御率1.54で最優秀防御率のタイトル(セ・リーグ歴代10位)を獲得した。また、シーズン通算4完封は吉見一起・涌井秀章と並び両リーグ最多であった。クライマックスシリーズ第1ステージ(対ヤクルト)第1戦、第2ステージ(対巨人)第2戦に先発するも敗戦投手となり、中日のクライマックスシリーズ先発投手の中では唯一勝ち星が付かなかった。クライマックスシリーズ通算成績は4戦0勝3敗、合計18回1/3で14失点(2009年終了時点)。
2010年は開幕2戦目に先発し、和田一浩の満塁本塁打など大量の援護を受け、シーズン初先発初完封を記録した。序盤はやや不調で負けが先行したが7月には4勝負けなしで月間MVPに輝くなど安定した投球を披露。チームトップの13勝、防御率2.87と好成績を残しチームのリーグ優勝に大きく貢献した。この年の日本シリーズでは2試合登板で計2失点と孤軍奮闘したものの他の先発投手陣のふがいなさが災いし、チームはチェンが挙げた1勝を含む2勝4敗1分で敗退した。
プレースタイル [編集]

現役の学生として中日に入団を果たした左腕。そのしなやかなピッチングフォームは中日往年の左腕エース・今中慎二を彷彿とさせる[1]。最大の武器である球界トップクラスのキレを誇るストレート(最高球速154km/h)に加え、速く小さい変化と大きな変化の2種類のスライダー、カーブ、フォーク(本人はチェンジアップだと主張)などで、奪三振も多い。
登録上は左打ちだが、実際はスイッチヒッターである(2005年等は登録上も両打ちであった)。
人物 [編集]

メジャーなどの8球団からオファーを受けていたが、中日のアジア地区担当スカウトであった大豊泰昭が交渉にあたり、入団にこぎつけた。来日後は公私に渡って親交を深め、初勝利時のヒーローインタビューで「(一番に)大豊さんに伝えたい」と答えた。
同い年で同期入団でもある堂上剛裕、中川裕貴両選手と仲がよい。堂上照寮長曰く「あんなにすごいピッチングするけど、中川たちとゲームやっているときは普通の高卒の選手と一緒の顔するよな」とのこと。また吉見一起とは兄弟のように仲がよい(吉見が兄でチェンが弟)[1]。
元読売ジャイアンツの姜建銘とは同い年で台湾時代からのライバル。
2009年にはアンダーシャツの首部分には自身の名と、中華民国国章の「青天白日」を組み合わせたマークが使われていた。
2009年オフ、6年間交際をしていた台湾人女性と結婚し[2]、また、自身がメジャーリーグを志望している事を公言した[3]。
現在ではインタビューも日本語で受け答えできるほど日本語が上達している。良き相談相手の台湾出身で元中日の投手、郭源治のすすめもあり、来日当初から専属通訳が付かなかったので必死で日本語を覚えたとのこと。また、外国人選手にしては珍しく選手会に所属している。
国立体育学院やアテネ五輪代表時に付けていた背番号「54」は、現地語の発音が「5」=「我」、「4」=「死」となるため「不吉な番号」として他選手はつけることを嫌っていたが、チェンはあえてこの番号を選んで付けていたという。
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【2010/11/08 20:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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