├─≠ョ─ヵラス 長身人物概要 [編集]
衆議院議員連続20回当選(1947年~2003年)。位階勲等は従六位大勲位。
現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。
職歴は内務省、大日本帝国海軍を経て、内務省に再勤、退官後、衆議院議員選挙に立候補。 以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、内閣総理大臣となる。
2004年7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者となった。
公称身長178cmであり、歴代総理大臣2位の長身と言われている。(1位は大隈重信の公称180cm。)[1]
血液型はO型。
略歴 [編集]
1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。
1935年(昭和10年) - 旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)4年修了。
1938年(昭和13年) - 静岡高等学校(現・静岡大学)文科丙類卒業。
1941年(昭和16年) - (昭和16年) - 東京帝国大学法学部政治学科を卒業後内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官。広島の呉鎮守府に配属され第二設営隊の主計長に任命される。終戦時は海軍主計少佐。終戦後、内務省に復帰。
1946年(昭和21年) - 内務省を依願退職。
1947年(昭和22年) - 第23回衆議院議員総選挙で立候補、初当選。
1953年(昭和28年) - ハーバード大学の夏期セミナーに留学。少壮教授だったキッシンジャーが責任者であった。
1954年(昭和29年)- 3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。
1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。
1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。
1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任。(昭和46年まで。現在は名誉総長)
1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。
1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。
1972年(昭和47年) - 第1次田中角榮内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)。第2次田中角榮内閣では通産大臣専任となる。
1974年(昭和49年) - 三木内閣で幹事長に就任。
1977年(昭和52年) - 福田赳夫内閣改造内閣でまた総務会長となる。
1978年(昭和53年) -自由民主党総裁選挙に初出馬する。
1979年(昭和54年) - 総選挙の敗北を受けた「四十日抗争」時には大平正芳首相に対して退陣を要求する。
1980年(昭和55年) - 鈴木内閣の行政管理庁長官に就任。
1982年(昭和57年) - 第71代内閣総理大臣に就任。第1次中曽根内閣を発足。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行う。外務大臣に安倍晋太郎を起用。
1983年(昭和58年) - 第2次中曽根内閣発足。内閣官房長官に藤波孝生、文部大臣に森喜朗を任命。
1984年(昭和59年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。内閣官房副長官に山崎拓を抜擢した。
1985年(昭和60年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。農林水産大臣に羽田孜を、自治大臣に小沢一郎を起用する。プラザ合意により、円高を容認。12月には内閣改造を行なう(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。
1986年(昭和61年) - 衆参同日選で大勝。第3次中曽根内閣発足。大蔵大臣に宮澤喜一を、運輸大臣に橋本龍太郎を任命。
1987年(昭和62年) - 売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下するが、やがて人気を取り復した。竹下登を後継総裁に指名して退陣。
1989年(平成元年)[元号要検証] - リクルート事件に関与して自民党から離党。
1990年(平成2年) - 派閥を渡辺美智雄に譲る。
1991年(平成3年) - 自民党に復党。
1996年(平成8年) - 比例区の終身一位となる。
1997年(平成9年) - 大勲位菊花大綬章を受章。
1999年(平成11年) - 江藤隆美、中尾栄一、与謝野馨、村上正邦、佐藤静雄らで構成する中曽根派と亀井静香率いる亀井グループが合併し村上(江藤)・亀井派を結成。中曽根は最高顧問に就任。
2001年(平成13年) - 森首相退陣後の総裁選に出馬した亀井静香に総裁選辞退を進言し、亀井はこれを受諾する。
2003年(平成15年) - 小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請され、当初は反対するも最終的には政界から引退。
生涯 [編集]
出生から大学卒業・内務省入省まで [編集]
群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという[2]。
地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。
同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた[3]。
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