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【2024/11/28 09:31 】 |
踊り252
総理大臣就任 [編集]
長期政権 [編集]
田中派の支持も得た中曽根は党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年(昭和57年)11月に第72代内閣総理大臣に就任。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ[5]1987年(昭和62年)まで一国の総理の座にあり、小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。
ただし、政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進[6]を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の第37回衆議院議員総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年6月の第38回衆議院議員総選挙と第14回参議院議員通常選挙で自民党を圧勝させ[7]、中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。
一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等の保守色が強い姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」等といった激しい批判を浴びた。ただし教育改革については自身の私的諮問機関である臨教審に日教組元委員長の槙枝元文を入れた事が1988年に内示された所謂ゆとり教育に繋げられたという見方も存在している。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正[8]の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、佐藤誠三郎[9]等、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者」の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。
1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行等は、後年の阪神淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。
一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」等の失言で物議を醸す事も多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。
首相在任中2度あった総選挙(1983年の第37回と1986年の第38回)では現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制)。これは戦後の首相では中曽根だけ。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。
中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照のこと)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。
任期後半には上記の通り田中の影響を脱するとともに、バブル経済につながる好景気を演出し、支持率も概ね高水準を維持した。好調すぎる対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却[10]を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブル期において横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネをめぐる問題が再び取りざたされるようになった。
外交 [編集]
日米関係 [編集]


訪米時にアンドリュース基地に到着した中曽根と妻の蔦子


アメリカのロナルド・レーガン大統領と中曽根の別荘日の出山荘で歓談する中曽根
1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[11]。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。
1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。
そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈をめぐって対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なる事となる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。
おまけに伊東正義外務大臣の後任である園田直が、韓国との関係まで損なう事件まで起こしてしまう。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルのドルの政府借款要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、びた一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をしてしまい、韓国の反発を招く。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。
1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。
訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」及び「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に個人的な親密関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した[12]。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987(昭和62)年度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産(GNP)の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取るむきもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy)と批判されることもある。
また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したため、アメリカの貿易赤字が増加した事に対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。
ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言した事から「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言した事は北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。
不沈空母発言の真相 [編集]
ワシントンポスト会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われたワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳したのだった[13]。
後日オーバードーファーから、中曽根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べなおしたが「不沈空母」なる言葉がなかった、用いた言葉は「大きな船」であり、正確な内容をもういちど記載すると言ってきたが、中曽根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。
ウィリアムズバーグ・サミット [編集]


1983年、アメリカバージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目)
中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配備すべきか否か、であった。
だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。
そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。
そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。
クレムリンの機密文書 [編集]
ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。
このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。
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【2010/11/02 22:43 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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