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総理大臣就任 [編集]
長期政権 [編集] 田中派の支持も得た中曽根は党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年(昭和57年)11月に第72代内閣総理大臣に就任。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ[5]1987年(昭和62年)まで一国の総理の座にあり、小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。 ただし、政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進[6]を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の第37回衆議院議員総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年6月の第38回衆議院議員総選挙と第14回参議院議員通常選挙で自民党を圧勝させ[7]、中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。 一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等の保守色が強い姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」等といった激しい批判を浴びた。ただし教育改革については自身の私的諮問機関である臨教審に日教組元委員長の槙枝元文を入れた事が1988年に内示された所謂ゆとり教育に繋げられたという見方も存在している。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正[8]の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、佐藤誠三郎[9]等、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者」の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。 1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行等は、後年の阪神淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。 一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」等の失言で物議を醸す事も多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。 首相在任中2度あった総選挙(1983年の第37回と1986年の第38回)では現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制)。これは戦後の首相では中曽根だけ。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。 中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照のこと)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。 任期後半には上記の通り田中の影響を脱するとともに、バブル経済につながる好景気を演出し、支持率も概ね高水準を維持した。好調すぎる対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却[10]を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブル期において横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネをめぐる問題が再び取りざたされるようになった。 外交 [編集] 日米関係 [編集] 訪米時にアンドリュース基地に到着した中曽根と妻の蔦子 アメリカのロナルド・レーガン大統領と中曽根の別荘日の出山荘で歓談する中曽根 1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[11]。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。 1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。 そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈をめぐって対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なる事となる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。 おまけに伊東正義外務大臣の後任である園田直が、韓国との関係まで損なう事件まで起こしてしまう。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルのドルの政府借款要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、びた一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をしてしまい、韓国の反発を招く。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。 1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。 訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」及び「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に個人的な親密関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した[12]。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987(昭和62)年度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産(GNP)の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取るむきもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy)と批判されることもある。 また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したため、アメリカの貿易赤字が増加した事に対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。 ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言した事から「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言した事は北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。 不沈空母発言の真相 [編集] ワシントンポスト会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われたワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳したのだった[13]。 後日オーバードーファーから、中曽根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べなおしたが「不沈空母」なる言葉がなかった、用いた言葉は「大きな船」であり、正確な内容をもういちど記載すると言ってきたが、中曽根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。 ウィリアムズバーグ・サミット [編集] 1983年、アメリカバージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目) 中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配備すべきか否か、であった。 だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。 そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。 そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。 クレムリンの機密文書 [編集] ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。 このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。 |
海軍時代 [編集]
短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍の海軍経理学校にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県の土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。 同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。 29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曽根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を酌み交わし、人心掌握に努めた。 1941年12月7日に太平洋戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島のダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。 次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダとイギリスの巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。 消火班長でもある中曽根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曽根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。 友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜 夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ 当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。 「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです[4]」 中曽根はその後も主計将校として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。 終戦時の階級は海軍主計少佐であった。 政治家への転身 [編集] 少壮議員時代 [編集] 戦後内務省に復帰し、 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、反吉田勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。 1955年の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。 1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは青年将校と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行なったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったりしたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。 初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県の九頭竜ダム建設をめぐる落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。 三角大福中 [編集] 田中角栄(左) 第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任。運輸大臣として入閣した際にはそれまで佐藤を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され以後これが中曽根の代名詞になった。防衛庁長官時代には1970年に防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体等から強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。1972年には、殖産住宅事件では株取得で証人喚問される。翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。 こうして要職を経験するなかで、いわゆる「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていた事等から自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、角栄の買収等と後に週刊誌に憶測を呼ぶ事にもなった。 第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。 1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。 鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、よりによって派の後輩の渡辺美智雄にその座を攫われるという屈辱を味わう。しかし財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化等の答申をする事になる土光敏夫の信頼も得る事になった。 |
出演作品の不発と愛息の死
1975年にカール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシング(現「ニューマン・ハース・ラニガン・レーシング」)を結成し、CARTに参戦した。1977年のデイトナ24時間レースで5位を記録すると、1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録。レーサーとしても華やかな成功を記録した。その一方で俳優業は不振が続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画『世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ポール自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。さらに1978年には、息子スコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした[1]。 愛息の死を嘆いたポールは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立[2] し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っている。 |