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【2024/11/28 06:34 】 |
山井大介
山井 大介(やまい だいすけ、1978年5月10日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
大阪府豊中市出身。少年時代はボーイズリーグの「箕面スカイラーク」[1]に所属。神戸弘陵学園高等学校時代には後にプロでチームメイトとなる玉野宏昌と同級生だった。その後奈良産業大学を経て、社会人野球の河合楽器に入社。
2001年の第72回都市対抗野球大会の準決勝で勝利を挙げるなど、同社の初優勝に貢献する。しかし同年限りで野球部が休部したため、社会人1年目だが特例措置でドラフト対象となり、2001年のドラフトで中日ドラゴンズから6巡目指名を受け入団。なお、同僚の久本祐一も4巡目指名で入団している。
プロ入り後 [編集]
ルーキーイヤーの2002年、オーバースローとサイドスローを併用する変則投法で、新人ながらシーズン31試合に登板、6勝(3敗)を挙げた。
2003年は、サイドスロー固定を図ったが、逆にフォームを崩してしまいシーズン4試合の登板に終わる。しかし、ウエスタン・リーグでは最多勝を獲得。
2004年シーズン後半、オーバースローに固定して一軍に復帰、9月12日の広島戦で初完封勝利を記録。なお、首脳陣はこの日の先発投手を長峰昌司とのじゃんけんで争わせ、パーの長峰に対してチョキを出した山井が勝った。この一件から山井は“ジャンケン男”と呼ばれている。同年の日本シリーズ第4戦において、高速スライダーを主とした投球で西武相手に無失点の快投をした。
2005年シーズン中は一軍と二軍を行き来。序盤は先発登板が多かったものの結果を残せなかったが、後半戦では主にリリーフに回り、抜群の安定感を発揮した。
2006年、右肩の痛みから初めて一軍登板無しに終わった。同年オフ、幼馴染との結婚を発表[2]。ちなみに結婚相手は、山井の父親が監督であり山井自身も所属していた少年野球チーム「大阪ドラゴンズ」のマネージャーだった。
2007年は、山本昌の不調から先発ローテーションの一角を任されるが、援護が少なく長らく勝ち星から見放されていた。また、序盤から突然崩れることも目立ち、波に乗れなかった。8月21日の対巨人戦に登板し、またも初回からピンチを招くが、1失点で切り抜けるとその後は無得点に抑え、2年ぶりとなるシーズン初勝利を挙げた。その後は調子も安定し、まれにみる巨人および阪神との三つ巴の優勝争いの中、9月には登板5試合で4勝1敗、防御率3.00の好成績を上げ、自身初のセ・リーグの月間MVPを受賞した。クライマックスシリーズでは第2ステージ第1戦での先発予定も右肩痛再発のため回避したが、日本シリーズでは第5戦に登板し、8回を完全に抑えた。先発投手の8回パーフェクトピッチングは日本シリーズの新記録(過去の最高記録は村山実(阪神)、佐々岡真司(広島)が樹立した7回1/3)である。また、9回に降板して、守護神の岩瀬仁紀が登板して三者凡退で抑えたことで、レギュラーシーズン中も含めて史上初の継投による完全試合を達成[3]。しかし、山井から岩瀬への継投を行った落合監督の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)。
2008年、前年の日本シリーズの好投もあり、活躍が期待されたがオープン戦序盤に下半身の張りを訴えて出遅れ、4月9日に選手登録された。しかし2試合に登板したのみで、右ひじ痛のため出場選手登録を抹消された。その後、クライマックスシリーズで再び1軍登録されるも不甲斐ないシーズンとなってしまった。
2009年、エースの川上憲伸(現アトランタ・ブレーブス)が抜けたことにより、先発ローテの一角を担うことが期待された。しかし、開幕一軍はならなかった。4月15日に今季初の一軍昇格。4月19日の対巨人戦に登板するも2回4失点で降板した。5月8日の対巨人戦も1回3失点と振るわず、試合後2軍降格した。その後は1軍復帰し,岩瀬仁紀故障時に自身4年ぶりとなるセーブを記録するなど中継ぎでの登板が多くなった。その後クライマックスシリーズ目前の巨人戦に先発登板,負け投手となり目の前で巨人優勝の胴上げを見ることになってしまった。クライマックスシリーズでの巨人戦では中継ぎ登板し1イニングを0に抑えた。
2010年は4月6日の横浜戦で3年ぶりの勝利投手となる。7月16日の広島戦では6年ぶりの完封を飾り、この試合以降でプロ野球新記録となる「チーム5試合連続完封」を記録することとなった。また8月18日の巨人戦(ナゴヤドーム)で、巨人打線を8回終了時まで無安打に抑えていたが、9回の先頭打者坂本勇人に初被安打・初失点となる本塁打を打たれ、直後に岩瀬に交代した(試合は3-1で中日が勝利)。その後のヒーローインタビューでは2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投を受け、「やっぱり8回までしか持ちませんでした」と自虐的にコメントした。
プレースタイル [編集]

最速151km/hの直球(先発での通常時は130km/h台後半~140km/h台前半)、縦へ大きく変化するスライダー、フォークボール、シュートを投げ分ける。
先発も中継ぎも出来る。能力の高さは落合博満監督はじめファンの多くも認めるところだが、怪我が多く一年を通して活躍したことはない。
先発としては長い回を無失点に抑える試合もあれば、同じチームに序盤で大量失点を喫して降板する等、安定した投球をできないのが課題の一つである。
人物 [編集]

乱視を矯正するためのサングラスを着用している風貌がウルトラセブンにそっくりなため、ネット上ではそれがそのまま愛称となっている。また、投手ではあるが打席に入る時の音楽が『ウルトラセブンのうた』(~2006年、2010年~)ただし3打席目以降にこの登場曲が使用される。一時期は『勇者ライディーン』のテーマだった。父は地元の北海道札幌市の「ほっかいドうラゴンズ少年野球団」の団長・総監督を務めている[4]。
関西出身とあって、幼い頃から大の阪神ファンであり、社会人時代まで阪神タイガースの法被を着て応援に行くほどの熱狂振りであったことを公言している。
落合監督の評価は非常に高い。落合はあまり選手を褒めないが、「あれだけのものを持っているのだから」と発言している。また、シーズン前には山井の名を挙げ、「2ヶ月でも3ヶ月でもいいからやってほしい」とも発言している。また、「やっぱり山井だね」とも言わしめた。
大谷昭宏とは一緒のマンションに住んでいたことがあるらしい[5]。なお大谷は現在、東海テレビで放送されているスーパーサタデー(内包されているドラゴンズHOTスタジオを含む)に出演している。
2010年10月 漫才師、オール巨人の長男であるタレントでプロゴルファーの南出仁寛が山井の妹と結婚することが発表された。
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【2010/11/08 20:13 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
チェン・ウェイン
チェン・ウェイン(陳 偉殷、1985年7月21日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
2008年に登録名を本名から「チェン」に変更している。
目次 [非表示]
1 来歴
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
5 脚注
6 関連項目
来歴 [編集]

高校時代には公式戦で22奪三振を記録するなど活躍。国立体育学院学生の身分のまま、中日に入団した。
2004年は、一軍昇格をしながら登板機会は得られなかった。アテネ五輪では台湾代表にも選出された。
2005年にプロ初セーブを記録。この一軍での実績が認められ母国での兵役期間が短縮され、同年オフに2週間の兵役を完了。
2006年シーズン途中に骨折してしまう。2007年は前年の骨折の影響からリハビリ期間を設ける意味合いも兼ねて育成選手として契約。
2008年は骨折が完治し、再び支配下選手として契約。4月2日の対巨人戦で山本昌が負傷降板した後の急な登板であったものの来日初勝利。その後はチーム事情から中継ぎでの登板が多かったが、7月16日の対巨人戦で先発での初勝利を挙げている。なお、北京オリンピックの台湾代表として日本国内球団所属選手からは唯一代表に選出された。9月22日の対ヤクルト戦では4安打に抑え、プロ初の完投・完封を記録。
2009年は速球のキレが冴え、ストレートの被打率は藤川球児(阪神タイガース)を抑え球界トップの.183をマークした。開幕3戦目の4月5日の対横浜戦で今季初先発し、6回3安打無失点で初勝利を挙げた。8月の月間成績は4試合33イニングで1完封を含む3勝0敗、防御率0.82で、自身初の月間MVPを受賞した。この年の月間防御率は、最も悪かった9・10月でさえ2.15であり、年間通じて安定感を維持した。クオリティ・スタート(6回3失点以内)を19回記録したが、そのうち11回で勝ち星がつかないなど打線の援護に恵まれず、6月の故障離脱もあり8勝に終わった。二桁勝利には届かなかったものの、シーズンを通して抜群の安定感で、防御率1.54で最優秀防御率のタイトル(セ・リーグ歴代10位)を獲得した。また、シーズン通算4完封は吉見一起・涌井秀章と並び両リーグ最多であった。クライマックスシリーズ第1ステージ(対ヤクルト)第1戦、第2ステージ(対巨人)第2戦に先発するも敗戦投手となり、中日のクライマックスシリーズ先発投手の中では唯一勝ち星が付かなかった。クライマックスシリーズ通算成績は4戦0勝3敗、合計18回1/3で14失点(2009年終了時点)。
2010年は開幕2戦目に先発し、和田一浩の満塁本塁打など大量の援護を受け、シーズン初先発初完封を記録した。序盤はやや不調で負けが先行したが7月には4勝負けなしで月間MVPに輝くなど安定した投球を披露。チームトップの13勝、防御率2.87と好成績を残しチームのリーグ優勝に大きく貢献した。この年の日本シリーズでは2試合登板で計2失点と孤軍奮闘したものの他の先発投手陣のふがいなさが災いし、チームはチェンが挙げた1勝を含む2勝4敗1分で敗退した。
プレースタイル [編集]

現役の学生として中日に入団を果たした左腕。そのしなやかなピッチングフォームは中日往年の左腕エース・今中慎二を彷彿とさせる[1]。最大の武器である球界トップクラスのキレを誇るストレート(最高球速154km/h)に加え、速く小さい変化と大きな変化の2種類のスライダー、カーブ、フォーク(本人はチェンジアップだと主張)などで、奪三振も多い。
登録上は左打ちだが、実際はスイッチヒッターである(2005年等は登録上も両打ちであった)。
人物 [編集]

メジャーなどの8球団からオファーを受けていたが、中日のアジア地区担当スカウトであった大豊泰昭が交渉にあたり、入団にこぎつけた。来日後は公私に渡って親交を深め、初勝利時のヒーローインタビューで「(一番に)大豊さんに伝えたい」と答えた。
同い年で同期入団でもある堂上剛裕、中川裕貴両選手と仲がよい。堂上照寮長曰く「あんなにすごいピッチングするけど、中川たちとゲームやっているときは普通の高卒の選手と一緒の顔するよな」とのこと。また吉見一起とは兄弟のように仲がよい(吉見が兄でチェンが弟)[1]。
元読売ジャイアンツの姜建銘とは同い年で台湾時代からのライバル。
2009年にはアンダーシャツの首部分には自身の名と、中華民国国章の「青天白日」を組み合わせたマークが使われていた。
2009年オフ、6年間交際をしていた台湾人女性と結婚し[2]、また、自身がメジャーリーグを志望している事を公言した[3]。
現在ではインタビューも日本語で受け答えできるほど日本語が上達している。良き相談相手の台湾出身で元中日の投手、郭源治のすすめもあり、来日当初から専属通訳が付かなかったので必死で日本語を覚えたとのこと。また、外国人選手にしては珍しく選手会に所属している。
国立体育学院やアテネ五輪代表時に付けていた背番号「54」は、現地語の発音が「5」=「我」、「4」=「死」となるため「不吉な番号」として他選手はつけることを嫌っていたが、チェンはあえてこの番号を選んで付けていたという。
【2010/11/08 20:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
中田賢一
中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
4.5 登場曲
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
小学校3年より父親がコーチ・監督を務めるチームでソフトボールを始め、中学時代に硬式のボーイズリーグ、上津役ロビンスに入り本格的に野球を始める。その後、地元の福岡県立八幡高等学校へ進学。0時間目からの授業や夏休みの補習等、進学校特有の授業構成の中勉強との両立に苦しみながら練習を積むも、高校時代は3年春の県北部大会8強が最高と無名の時代を過ごす。高校3年時では球速のMAXは130km/h台後半。当然ながらプロのスカウトは全くノーマークだった。
卒業後、北九州市立大学へ進学。プロ入りを意識した進学ではなかったが、大学2年時より頭角をあらわし、無名公立校の快腕としてプロや米大リーグのスカウトから注目を浴びるようになる。3年時には球速も150km/hをマーク。途中オーバーワークにより故障するものの、その後復活し、大学4年時の九州六大学春季リーグにおいて母校を39年ぶりに優勝に導き、全日本大学選手権大会出場を果たす。同大会で創価大に勝利し、神宮初勝利をあげる。同年、日米大学野球選手権大会日本代表にも選出される。この年の秋季リーグ戦では久留米大相手にノーヒットノーランを達成した。リーグでは2年春秋ベストナイン、4年春には最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、そしてMVPを獲得。
2004年のドラフトで、中日ドラゴンズから2巡目に指名され、入団。背番号は昨シーズン限りで現役引退した川崎憲次郎からエース番号である20を引き継ぐ。
プロ入り後 [編集]
2005年、球団としては1998年の川上憲伸(現アトランタ・ブレーブス)以来となる新人での開幕ローテーション入りを果たす。4月3日の開幕シリーズでプロ初登板初先発、先発2試合目の4月15日の対阪神戦でプロ初勝利をあげた。この時、8回まで阪神打線を4安打無失点に抑え、9回に金本知憲の本塁打により失点し降板するものの、あわやプロ初勝利を初完封で飾るかという好投を見せた。シーズン前半は防御率6点台と振るわず、5月には怪我により二軍落ちした。しかし8月中盤に一軍復帰すると、先発6連勝を挙げ、ルーキーイヤーでの6連勝は26年ぶりの球団タイ記録となった。シーズン後半の防御率は1点台と安定感を誇り、川上ら先発陣が不調だった中で大きな戦力となった。
2006年は、序盤怪我により2ヶ月離脱したものの、中盤から復帰。9月12日の対巨人戦でプロ入り後初の完投勝利をあげる。防御率3点台で7勝4敗、奪三振率を上げるなど、まずまずの成績を残した。日本ハムとの日本シリーズ第4戦では先発投手も務めるが、4回1失点の内容も打線の援護なく敗戦投手となった。シーズン終了後、中里篤史らとともにドミニカのウィンターリーグへ参加し、現地のコーチから高評価を得た。
2007年はシーズン当初からストレートは球威抜群で自己最速を更新するものの、変化球の制球に苦しみ、与四球も多く、中盤は1ヶ月以上勝ち星がつかないなど苦しい時期もあった。しかし8月12日の対巨人戦で10三振を奪っての完投勝利で9勝目をあげた頃から、決め球のフォークボールが本来の大きな落差を取り戻し、白星を重ねてチームの優勝争いに貢献した。8月19日の対横浜戦でシーズン10勝目をマークし、プロ入り後初めて2桁勝利を挙げた。
また、奪三振率も大幅にアップし、最後まで内海哲也(巨人)と熾烈な奪三振王争いを繰り広げた。トップと11個差で迎えたシーズン最終登板の10月6日のヤクルト戦では、5回までで8奪三振と快調なペースで進み、このまま続投すれば奪三振王のタイトルをほぼ確実に手中に収めるのではないかと思われたが、クライマックスシリーズへ向けての他投手陣の調整登板のため5回終了後にマウンドを降り、惜しくも初のタイトル獲得を逃した。
自身がシーズン前に掲げた「2桁勝利と一年間一軍」という目標を全うし、川上を超えてチームトップ、リーグ2位タイの14勝をマーク。与四球・暴投数がリーグ最多となるなど制球面で翌シーズンへの課題を残したものの、奪三振率は9.35でリーグトップとなり、規定投球回数をクリアした投手の中では中日球団史上初めてとなる奪三振率9.00以上を達成した。
オールスターゲームにも初出場を果たし、1失点こそしたものの150km/h台の速球で2イニングで3三振を奪った。
2007年のクライマックスシリーズでは、阪神との第1ステージ第2戦、巨人との第2ステージ第3戦にそれぞれ先発登板。どちらも中田の勝利でステージ突破を決めた。特に日本シリーズ出場を決めた第2ステージの巨人戦では、東京ドームで巨人打線を相手に再三ランナーを背負いながらも11三振を奪う気迫のこもった力投を見せ、ファンの反響を呼んだ。普段はマウンド上ではクールな中田がこの日は三振を奪うたびに何度もガッツポーズを見せ、本人も「今までで一番喜怒哀楽が出た」と振り返るほどの気迫で勝利をたぐり寄せた。続く日本シリーズでは、初戦にエース川上憲伸を立てたものの打線がダルビッシュ有の前に沈黙して敗北した後の大切な第2戦に先発。敵地札幌ドームで8回を3安打1失点の好投で勝利投手となった。
2008年、開幕シリーズの4月1日の対巨人戦では上原浩治と投げ合い、8回に最速スピードをマークするなど前年同様のスタミナを発揮しシーズン初勝利を挙げる。4月22日の阪神戦ではプロ4年目にして初の完封勝利を挙げ、4月は4勝1敗と好成績でスタートした。北京五輪日本代表第一次候補選手にも選出され、テレビ中継では背番号20の先輩である星野仙一に絶賛された。しかし、制球面でまとまりが出た反面、「暴れ馬」と呼ばれた前年のような勢いに欠け、5月以降は打ち込まれる場面が多くなった。落合監督は「自分の一番いいところを変えたんだ。元に戻すのは大変だ。今年中はかかるかもしれない」「でも、1つ言えるのはあいつが立ち直らなきゃどうしようもないんだ」とコメントし、7月2日に一軍登録を抹消。コーチも「ゆっくり調整させる」と明言していたが、苦しいチームの投手事情から、二軍戦で1試合登板しただけで一軍復帰。完全復調とはいかないながらもローテーションを守り続けるが、8月25日の巨人戦で試合中に転倒し左足を痛め、再び一軍登録を抹消された。9月に再び一軍復帰するものの調子が上がらず、7勝9敗でシーズンを終えた。入団から3年で29勝を挙げ、エースへの道を着実に歩んできた中田にとって、初めて壁に突き当たるシーズンとなった。
2009年は川上が移籍し、先発ローテの一角として期待されるも、4月8日の対ヤクルト戦で4回を10安打6失点で敗戦投手となり、翌日登録抹消されたが、7月7日の対ヤクルト戦で8回を3安打1失点11奪三振の好投でシーズン初勝利を飾る。10月19日のクライマックスシリーズの対ヤクルト戦では5回1失点4奪三振の好投でチームのクライマックスシリーズ第2ステージ出場へと大きく貢献した。第2ステージはアドバンテージを含む1勝3敗で迎えた4戦目の先発を任されたが谷佳知に満塁ホームランを被弾する等、2回0/3を7失点と大炎上。チームもそのまま敗退し日本シリーズ出場はならなかった。
2010年から同姓の中田亮二が入団した為、スコアボードは「中田」から「中田賢」になった。しかし、打席に入るとき、応援団は以前と変わらず「中田」とコールしている(中田亮二は「ぶーちゃん。」とコールされる)。開幕ローテーションには入れなかったものの5月にはローテーションに復帰。規定投球回には届かなかったものの4完投2完封で7勝4敗、防御率2.90の成績を残し優勝に貢献した。
プレースタイル [編集]

最速153km/hの速球と落差の大きいフォークボール、スライダー、カーブ、カットボール を武器に三振を奪える右腕。その球威はリーグ屈指と言われており、高い奪三振率を誇る。
独特の強めの横回転が掛かったフォークボールは落差が大きく、三振を奪う決め球として使うことが多い。カーブと軌道が似ており、解説に来ていた星野仙一に「あとはフォークかチェンジアップを 覚えたらいい」と言われたこともある。地面に叩き付けられると同時に予期せぬバウンドをする為、暴投・捕逸が発生しやすいのも特徴。背番号20の先輩であり、「フォークの神様」と呼ばれキャンプでは藤川球児や川上憲伸にフォークボールの投げ方を伝授している杉下茂は、中日スポーツ紙上のコラムで中田のフォークボールについて「沈んだり、曲がったりするフォーク」と表現して賞賛し、独特の投げ方を崩してしまわないようにと中田にはキャンプでもフォークボールを教えていないことを明かしている。
落合監督から「暴れ馬」と例えられているように、球威で押す投球スタイルと荒れ球が最大の持ち味。それ故に制球面に課題があり、投球数が増えることが多いが、スタミナ切れで球威が落ちることはなく、かえって球速は増すほどである。ただ、2009年頃から制球難を克服するべくフォームを首の上下動の少ないものに、2010年からは以前よりわずかにスリークォーター気味に投げるものに変えたりとマイナーチェンジを繰り返しており、それによりやや直球の球速のアベレージを落としつつも変化球の制球が向上し四死球数は減少傾向にある。
ピックオフプレーが得意だが、得意故にランナーを刺そうとして暴投し自滅してしまうことも多い。
中日のホームグラウンドであるナゴヤドームで滅法強く、ルーキーイヤーの2005年4月15日の対阪神戦でのプロ初勝利から、2007年6月24日の対ソフトバンク戦で敗れるまで、足掛け3年でナゴヤドーム13連勝を記録した(2007年シーズン終了時点でのナゴヤドームでの通算成績は17勝2敗)。また、阪神戦に強く、虎キラーと呼ばれている。一方、広島と相性が悪い。
地方球場といえば朝倉健太のイメージが強い為目立たないが、中田も3勝0敗と相性がいい。
人物 [編集]

北九州市立大学から初めて直接プロ入りした選手(北九州市立大出身のプロ野球選手は森山良二以来二人目)。
北九州市立大学時代には近くの鷲峰山をランニングトレーニングコースとして走っていた。
大学4年時の春季リーグにおいて、3チームによる優勝決定戦で1日で2試合を完投した。第1試合では9回を完投し勝利、たった45分の休憩後、第2試合も延長11回を完投しサヨナラ勝ち。1日で2試合20イニング310球を投げ抜き、リーグ制覇を決めた。このとき父と母から渡されたお手製のお守りをポケットに入れてマウンドに立っていたという。
入団前は複数の球団から注目されていたが、中日の中田宗男スカウト部長は同じ姓であることを利用し「俺の遠縁」という噂を流して他球団のスカウトを牽制したという。実際には中田本人との血縁関係はない。
本人も中日以外の指名時は社会人へ進むことを明言しており、相思相愛の入団となった。
中日の将来を担う投手の1人として非常に期待が高く、杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄ら中日の歴代エースが背負った伝統の背番号20番を引き継いでいる。
力でねじ伏せる投球スタイルとは逆に、ヒーローインタビューなどでは非常に謙虚で礼儀正しい好青年。チーム内でも真面目で練習熱心な性格との定評がある。同世代のチームメイトからは「のんびりしていてマイペース」と言われることが多く、マウンドでも大一番でピンチを粘り強く切り抜ける強心臓ぶりを発揮する。長距離走が得意で、2005年中日秋季キャンプでの球場からホテルまでの17km走では、ダントツの1位でゴールした。
プロ入り2年目の春のキャンプ時、同い年で仲の良い同僚の中里篤史との間に「エース候補のイケメンコンビ」として中日スポーツ紙上でナカナカコンビという愛称がつけられた。
2007年シーズン開幕直前に父が病死。父の死からちょうど一ヶ月後の開幕シリーズで勝ち投手になり、ヒーローインタビューでアナウンサーからそのことに触れられると、中田は涙を浮かべて父への感謝の言葉を口にした。
2007年7月29日の対ヤクルト戦で3回に3ボールなのに四球を出すという珍記録を残している(対戦打者青木宣親)。2-2からの7球目がボールとなり、カウント2-3であるにもかかわらず青木が一塁に出塁。原因はスコアボードの誤表示であるが、森球審や他の審判員も気が付かず、中田や捕手の谷繁元信をはじめ両球団からも指摘がなかった。次打者の時に青木が盗塁死したためこの誤審が得点に絡むことは無く中日が勝利、試合終了後に誤審が発覚し審判4人が厳重注意処分を受けた。
前述の通りスタミナには定評があり、2007年9月16日の対阪神戦で、自己最速の153km/hを8回の128球目に記録するほどである。
2007年クライマックスシリーズ巨人戦の登板時、テレビ中継でゲスト解説の藤川球児にランナーを出した後の粘り強さについて評され、「ランナーを出してから、コントロールではなく自分の気持ち、バックを守っているみんなやファンの気持ちに答えたいというスタイルを強く感じる。話したことはあまりないが、ピッチングではすごく気持ちの強い子だと思う」と評された。
三振か四球か、の荒れ球が持ち味の投球スタイルに、落合監督には「暴れ馬」と評される。2007年クライマックスシリーズ阪神戦に登板し勝利した後の勝利監督インタビューでは「暴れ馬がうまいこと暴れていた」と評された。また、2007年の日本シリーズで好投し、読売新聞の記事で「名馬」と称された。
2007年シーズンに日本一となった後、名古屋タイムズ紙上で手記を発表。亡くなった父親について「小学校から、ほとんどの試合をバックネット裏の特等席で見てくれていた。変な言い方かもしれないけれど、平均寿命の残り分の試合を亡くなるまでに見に来てくれたのかなと思っています」「父に『15勝、20勝はしなくていい。毎年10勝、けがのない選手になれ』と言われてきた」などと述べている。
「NHK総合で中継される試合で勝てない」というジンクスがある。2007年6月24日のソフトバンク戦中継時にはルーキー時代から続いていたナゴヤドームでの連勝が13でストップ、2008年5月5日の阪神戦中継時にはそれまでナゴヤドームで一度も負けたことがない阪神に初回一挙7点を奪われて敗れるという曰くつきである。 しかし、2010年9月5日の巨人戦では8回を5安打1失点(連打は無し、失点も犠牲フライによるもの)という好投を見せ勝利投手となり、初めてこのジンクスを打ち破った。
【2010/11/08 20:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り501
活動休止 [編集]

この節は現在進行中の事象を扱っています。記事の内容は最新の情報を反映していない可能性があります。
2010年8月9日、同日付の自身のブログで年内をもってアーティスト活動を無期限休止することを発表した。「来年から、しばらくの間は派手な『アーティスト活動』を止めて、『人間活動』に専念しようと思います」と宣言し、「2年になるか、5年になるか、わからないけど、一回り大きくなって帰ってくるから。少し時間をください」とファンに呼びかけ、同年秋には新曲も含めたシングルコレクションを発売することを明らかにした[17]。
活動休止を前に、EMIミュージック・ジャパンより新曲5曲を含む『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』が、ユニバーサルミュージックよりUtada名義の『Utada The Best』の2種類のベスト盤が発売される。このうちユニバーサル盤のUtada The Bestについては、本人の意思と無関係にリリースされたとして宇多田自身がブログとツイッターで遺憾の意を表している[18]。なお、宇多田が遺憾の意を示しているUtada The Bestには顔のアップ写真が使われている。片や、宇多田が心のこもった作品と言っているUtada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2のジャケットは宇宙の絵が使われている。(見た目は星空のようである)
人物・プロフィール [編集]

公式身長158cm、体重43kg。血液型A型。
清泉インターナショナルスクールに通っていたが、活動を始めた途端に退学となり、アメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)に転校した。ASIJでは成績優秀で、1年飛び級して、コロンビア大学に進学するが、まもなく中退。
名前 [編集]
本名は宇多田光だが、デビューする際に、周りから名前が堅い感じがするといわれ、本名と画数の変わらない「宇多田ヒカル」とした。画数については、姓名判断で度々彼女の名前は非常に素晴らしい画数である、と評価されている。それを本人が知っての決定となった[19]。中性的な名前のため、子供の頃はよく男の子に間違えられたという。また、「光」という名を考えたのは、父の宇多田照實だが、一方母である藤圭子は、彼女を「宇多田苺」と名づけたかったようで、そのことについて、アメリカの日本料理店にて父親と口論になったが、その店の壁に「光」と書道で文字が書かれていたのを発見したことで、話が決着した、というエピソードがある。とはいえ、どちらにせよ「苺」という文字は、当時は人名漢字として認められていなかった。また、名字の「宇多田」は、日本でも非常に珍しく、山口県などに数件ある程度である。また、家系について、宇多田の父の宇多田照實が子供の頃、長い巻物に描かれた家系図を見せられ、由緒ある家系であることを伝えられた、というエピソードがある。戦前の元首相・寺内正毅は遠戚にあたる。また、彼女の祖母は、瞽女(ごぜ)[20]であった。
趣味・嗜好 [編集]
作品を創作する上で一番の影響が伺えるのが、小説をはじめとした古今東西の文学である。元々、幼い頃からの読書家であったらしく、ブログでも度々小説や随筆の紹介をしている。公式プロフィールでは、多くの小説家や作家の名が好きなものとして公表されている。アルバム『DEEP RIVER』は、遠藤周作の『深い河』からインスパイアされたとしており、楽曲「テイク5」に関しては「宮沢賢治を意識して創った」とも述べている。また、英語圏アルバム『EXODUS』収録の「Kremlin Dusk」には、エドガー・アラン・ポーの詩『大鴉』が歌詞に登場している。「traveling」の平家物語からの引用、「Be My Last」での三島由紀夫原作映画『春の雪』主題歌提供、聖書の出エジプト記が色濃く表れた「Exodus '04」など、例を挙げればきりがないが、彼女の楽曲と文学は、切り離せないものになっている。夢は、部屋の全ての壁を本棚にすることだという。
ゲーマー・アニメ好きで知られており、タイアップをよく行っている。気に入った作品には、PVを観たその場で快諾することもある。特に、テトリスに関しては驚異的な腕前を持つ、筋金入りのテトリスマニア。本人曰く「5歳の頃から毎日プレイしている」ためか、以前『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』でダウンタウンの松本人志と対戦した際には、松本から「いや~、まさかあそこで○が落ちてくるとはね…。」と言わしめるほどに完勝し、ニンテンドーDS版では、いわゆるカンスト[21]を達成している[22]。2006年8月、任天堂が主催したイベント「宇多田ヒカルとテトリス対決!!」に参加。抽選で選ばれた一般者とテトリス対決を行い、26勝4敗という好成績を残した。さらに、テトリス開発者2名とも対決を行い、1勝1敗と善戦した[23]。また、「テトリスはスポーツ」と発言している[24]。テトリスのような幾何学的ゲームに惹かれるのは、RPGなどの対話型ゲームが嫌いだからだそう。理由は、「人と喋りたくないからゲームをしているのに、なんでゲームの中で人と喋らなければならないのか不思議」と思うからだという。そのため、タイアップした「KINGDOM HEARTS」シリーズもプレイしていないと、秘密を明かした[25]。
交友関係 [編集]
B'zの稲葉浩志とは、家族ぐるみの付き合いであるという。他に、今井絵理子[26]、及川光博[27]、唐沢寿明[28]、深田恭子[29]とも親しい。
Mikaと交友関係があり、彼の日本滞在時にAKB48の公演に2人で訪れた[30]。宇多田を主なモノマネのレパートリーとするミラクルひかるとも交流を持つ。
音楽性 [編集]

ほぼ全ての曲で作詞、作曲を手がけ、多くの曲で編曲も自ら行う。アルバム『ULTRA BLUE』以降はプログラミングも自ら行っている。
早熟な音楽家の近年代表例である彼女だが、雑誌のインタビューで絶対音感を持っていることを否定しており、「音がみんなドレミで聴こえるなんていただけない」といった趣旨の言葉をつづけている。
初期のころはR&B調の曲が多かったが、最近はポップ、バラードなどとジャンルが幅広くなっている。これは、本人曰く1つのジャンルにとらわれたくないからだという[31]。2004年の海外進出後、しばらく浮遊感のある暗い曲が多かったが、2007年の『Flavor Of Life』でポップな作風に戻っている[7]。情報誌『日経エンタテインメント!』で、音楽関連の記事を手がける海老名邦明は『HEART STATION』の紹介記事で「デビュー当時と比べるとやはり成長している。その契機となったのは、作詞・作曲に加えて編曲もすべて1人で行うようになった04年からだろう。」と評している[32]。デビュー当初から宇多田を担当している三宅彰は、宇多田のデビュー10周年の際に受けたインタビューで宇多田の変化についてコメントしている。デビューアルバム『First Love』から『ULTRA BLUE』までのアルバム4枚は誰に向けて書いたのか具体的に見える曲が多かったが、『HEART STATION』は顔の見えない不特定多数に向いていると述べている。三宅はこれを「10代は内面に向かいがちだったのが、20代半ばになり社会と自分というものを結びつけることができるようになったのかなと思う」と評している。続けて三宅は宇多田がデビュー当初から変わっていないところに、「声」を挙げている。曰く「音楽的な趣味も変わっているし、精神的にも大人になったし、見える景色も変わったでしょう。でも声の魅力と本質的な性格はあまり変わっていない」[33]。宇多田ヒカルは実際に歌っている、息継ぎ、歌の間のハミングなどからハッキリと確認出来る。
影響 [編集]
フレディ・マーキュリーを尊敬している。自身のサイトにおいて、好きなアーティストにナイン・インチ・ネイルズ、モーツァルト、ジミ・ヘンドリックス、バルトーク・ベーラ、レニー・クラヴィッツ、プリンス、エディット・ピアフ、コクトー・ツインズ、チック・コリア、ザ・ブルー・ナイル、ビョーク、TM NETWORK、尾崎豊、美空ひばりを挙げている。また、歌唱の面では元グルーヴ・セオリーのアメール・ラリューに強く影響を受けており、(自分の中で)師匠であると発言した[34]。
使用機材 [編集]
エレキギターはテレビ出演時等、ギブソン・レスポール・スタジオの黒を使っているのが確認出来る。『Be My Last』はエレキギターで唄いながら創ったとも。作曲に使うのはマッキントッシュで、使用ソフトはLogicとの発言あり。スタジオのエンジニアリングではPro Toolsを、昨今では活用しているらしい。キーボードであるがマッキントッシュ(主にノート型(恐らくMacBook))につなぐのは単なるMIDIキーボード(PC-300)で、シンセサイザーとしてはKORGのTRITONを使っているという。最初のMIDIキーボードは、「Prisoner Of Love」のジャケット撮影時に偶然にも壊れた。それは5年間愛用したもので、チェコで仕事があった際も持っていったものである。TRITONは現在ニューヨークの自宅のトイレに置いてあるという。壊れても捨てられないほどの愛着がある機材は最終的にトイレに行き着く[35]。
主な記録 [編集]

日本の歴代ミリオンセールスアルバムランキングTOP10では1位、4位、8位に彼女の作品が入っており[36]、宇多田ヒカル名義でのアルバムはすべて、日本レコード協会から、ミリオンの認定を得ている。現在、アルバムを3作連続で300万枚以上売り上げた日本のミュージシャンは彼女のみで[7]、“日本で最もアルバムを売ったアーティスト”としてギネスブックに紹介されている[37]。
オリコンの「10代のシンガーソングライターによる1stアルバムから3作連続で初登場トップ5入り」の記録を持つ2人のうちの1人である(もう1人は加藤ミリヤ)[38]。シンガーソングライターのベスト盤のミリオン獲得の最年少記録(21歳3か月)を持っている。
オリコン年間好きなアーティストランキングでは、2004年、2007年、2008年度で3度の1位を獲得している。また、HMVの「Top 100 Japanese pops Artists」(2003年)で24位[39]、「日本のシンガーTOP30」(2005年)に10位[40]。
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踊りはAutomatic
宇多田 ヒカル(うただ ひかる、hikaru utada、1983年1月19日 - )は、日本の代表的女性シンガーソングライターである。本名は宇多田 光(読みは同じ)。愛称は「ヒッキー(Hikki)」[2]
アメリカ合衆国ニューヨーク州出身で、デビュー当時はアメリカと日本の二重国籍だったとされるが、その後については公式の発表はない[3]。幅広い年代のファンを保持し、また多くの音楽的記録も保持する。2000年頃の日本のR&Bブームに大きな影響を与えた[4]。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 1993年 - 2000年
1.2 2001年 - 2003年
1.3 2004年 - 2006年
1.4 2007年 - 2010年
1.5 活動休止
2 人物・プロフィール
2.1 名前
2.2 趣味・嗜好
2.3 交友関係
3 音楽性
3.1 影響
3.2 使用機材
4 主な記録
5 ディスコグラフィ
5.1 シングル
5.2 デジタル・シングル(配信先行・限定)
5.2.1 着うた(R)
5.2.2 着うたフル(R)・PC配信
5.3 DVDシングル
5.4 アナログ盤シングル
5.5 アルバム
5.6 コンピレーション・アルバム
5.7 アナログ盤アルバム
5.8 VHS/DVD
5.9 別名義作品
5.9.1 U3
5.9.2 Cubic U
5.9.3 Utada
6 参加作品
7 コンサート
8 出演
8.1 テレビ
8.2 ラジオ
8.3 テレビCM (本人出演)
8.4 アニメ
9 書籍
10 タイアップ一覧
11 受賞
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
来歴 [編集]

1993年 - 2000年 [編集]
米国居住時代の1993年、U3(父:宇多田照實と母:藤圭子とのファミリーユニット)名義で『STAR』を発表。また同じく米国で1997年にCubic U(宇多田家の3乗の意味)としてソロシングル『Close To You』とアルバム『Precious』を発表[5]。
1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰[6]の目にとまり日本デビューを持ち掛けられるが、アメリカでCubic Uとしてソロデビューを控えていたため、当初は戸惑ったものの、三宅の熱心な説得により1998年1月28日に『Precious』を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューする事になった。
1998年12月、宇多田ヒカルとして1stsingle「Automatic/time will tell」でデビュー。プロモーションはラジオ出演のみだったがFMラジオや外資系CD shopのプッシュから一気に人気に火がつきデビュー曲はいきなりミリオンセールスを記録。わずか1枚のシングルだけで音楽メディアはもとより一般の週刊誌紙やワイドショーまでセンセーションを巻き起こした。そして宇多田が15歳で作詞作曲を手がけている事やアメリカで生活していた帰国子女でかつての演歌歌手・藤圭子の娘だという事が分かり世間を驚かせた。更にデビュー前のclub向けアナログ盤や業界向けコンベンションの高評価等、多方面で話題を呼んだ[7]。
1999年1月、自身のホームページにてブログを開始。当時は芸能人のブログ自体が珍しく宇多田ヒカルがその先駆けになった。1999年3月、1st album『First Love』を発売。日本で860万枚以上(オリコンの売り上げデータは765万枚)、国外を含めると990万枚以上を出荷し、国内album売り上げ史上歴代1位のhitとなる。この年に帰国し活動拠点を日本に移す。それまでラジオ以外へのメディア露出はほとんどなかったが、同年6月18日の『ミュージックステーション』(26.5%)を皮切りに『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(28.5%)、『SMAP×SMAP』(33.5%)等のテレビ番組にも出演。いずれも番組最高視聴率を記録(『SMAP×SMAP』は当時の最高視聴率)。
2000年6月、『HEY!HEY!HEY!』にて司会のダウンタウンと共に「倉木麻衣という宇多田のパクリが出てきている」という話題で盛り上がりこの一連のやり取りは両者のファンの間で物議を醸した。後にメッセージ上でアーティストとして似ているのではなく事務所やレコード会社の仕事の仕方や境遇が似ているという趣旨を述べたつもりが誤解を与えたと釈明し「浜田さんのあの言い方も酷かったし私も笑いをとろうとするべきじゃなかったね」と謝罪した[8]。
2000年7月、初めての全国ツアー「BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜」を開催(tour titleの由来はクイーンの曲ボヘミアン・ラプソディより)。7月1日の国立代々木競技場第一体育館を皮切りに全国10か所で開催。徳島公演の際には腰痛でダウンするという緊急事態もあったが名古屋レインボーホール(現:日本ガイシホール)での最終公演の後千葉マリンスタジアムで3日間にわたって追加公演を行う。いずれの公演のチケットもプラチナチケットと呼ばれ、電話予約開始から瞬時に完売、ネットオークション等で高値で出回る。千葉マリンスタジアム3日目の公演ではこの日の為にJam and Lewisが初来日し演奏に参加。“最初で最後の全国ツアー”などとうたわれたが2006年夏に2度目ツアーを開催。
2001年 - 2003年 [編集]
2001年3月、2nd album『Distance』を発売。発売日が浜崎あゆみのベストアルバム『A BEST』と重なり「歌姫対決」と話題を集めた。結果『Distance』の発売1週間の売り上げ枚数はオリコンで300.3万枚(邦楽album初動売上1位)、プラネットで262.9万枚、サウンドスキャンで244.3万枚を記録し、日本の3大チャートの全てで宇多田が浜崎を上回った。最終的に双方とも売り上げ400万枚を超えるヒットとなった。売り上げ約450万枚(オリコン)。オリコン年間アルバムチャート1位獲得。
2001年6月8日に起きた、附属池田小事件の被害者の1人が宇多田ヒカルのファンであったことを知り本来オリジナルのままシングルカットする予定だった曲「DISTANCE」を作り直しその被害者に捧げる曲として8th single「FINAL DISTANCE」としてリリース。2001年7月、Tezuka Osamu @ Cinema企画のインターネットアニメ「ブラック・ジャック」でピノコ役の声優に起用される。声優の仕事は本人初の試み。2001年8月、MTV UNPLUGGEDに出演。アメリカでUNPLUGGEDを制作していたスタッフが来日して撮影が行われた。2001年、TIME誌アメリカ版(秋特別号)にU2のボノ、ビョーク等6人と共に表紙を飾る。同年12月17日号でTIME誌アジア版の表紙を飾る。
2002年1月、米国のレコードレーベルグループであるアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループと契約。アメリカでの芸名を「Utada」とする。2002年1月31日、世界経済フォーラム(通称ダボス会議)のオープニングセレモニーに出席。同年2月18日、首相官邸で行われた、ブッシュ大統領歓迎レセプッションに出席。2002年4月、卵巣腫瘍(良性)と診断され、摘出手術を受ける。術後も薬の副作用で体調が回復せずしばらく休養。そのため、テレビ出演などプロモーション活動の中止も余儀なくされ、出演予定だった「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングには、急遽父親の宇多田照實が代理で出演。
2002年6月、3rdアルバム『DEEP RIVER』発売。テレビ出演はなかったが、雑誌・ラジオ番組でプロモーション活動を行った。発売1週間の売り上げ枚数はオリコンで235万枚、プラネットで189万枚を記録した。売上げ約360万枚(オリコン)。オリコン年間アルバムチャート1位獲得。
2002年9月6日、写真家で映画監督の紀里谷和明と結婚。紀里谷はアルバム『Distance』のCDジャケットや9thシングル「traveling」、10thシングル「光」、11thシングル「SAKURAドロップス」3rdアルバムのタイトル曲となった「Deep River」などのプロモーションビデオを製作。
2003年1月19日、自身20歳の誕生日に、ライブストリーミング・イベント「20代はイケイケ!」を開催。トークの他ミニライブも行われ、井上陽水の「少年時代」のカバーなど全3曲を披露。約2130万件のアクセス数を記録。
2004年 - 2006年 [編集]
2004年3月、コンピレーションアルバム『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』を発売。当時ベストアルバムの発売と話題になった。4週以上に渡ってオリコン1位を独走。250万枚以上のセールスを記録し、年間アルバムチャート1位となった。2004年2月、3日/4日/7日/8日/10日に、ライブ「ヒカルの5」開催。武道館での5日間限定ライブ。定員5万人に対して100万件以上の応募があり、プラチナチケットとなった。
2004年4月、紀里谷和明の初監督映画『CASSHERN』のテーマソングであるシングル13thシングル「誰かの願いが叶うころ」を発売。
2004年10月、幾多の延期を経てアルバム『EXODUS』で米国メジャーデビュー。収録曲「Devil Inside」シングルHot Singles Salesチャートで57位、ダンスチャートでは1位を記録。アルバムはビルボード総合アルバムチャートで160位。また新人や若手アーティストが対象のTop Heatseekersチャートでは5位。2005年10月には同アルバムで全英デビュー。日本では全米発売から4週間早い2004年9月8日に先行発売され全英語詞にもかかわらずミリオンセラーを記録するヒットとなった。オリコンチャートで1位獲得。
2005年9月に14thシングル「Be My Last」を発売し、その後も立て続けにシングルを発売。再び日本での活動が盛んになった。2月リリースの16thシングル「Keep Tryin'」は200万ダウンロード突破。その後NHKみんなのうたで、17thシングル「ぼくはくま」が起用された。「誰かの願いが叶うころ」「Be My Last」「Passion」「Keep Tryin'」など、2004年以降のシングルは作詞・作曲に加え編曲も宇多田自身が担当しており、活動の範囲を確実に広げている。NHK「トップランナー」では“シンガーソングライター”ではなく“音楽家”として紹介された。
2006年6月14日、4年ぶりとなる4thアルバム『ULTRA BLUE』リリース。この発売に先駆け、収録曲「This Is Love」を配信限定シングルとして販売した。このアルバムは初動50万枚を突破し、1stアルバムからの初動50万枚突破記録を更新し、歴代1位となった。オリコン2週連続1位獲得[9]。
2006年、6年振り2度目となる全国ツアー「UTADA UNITED 2006」を開催。7月1日の宮城県総合体育館からスタートし、9月10日の代々木体育館まで全国11箇所全22公演行われた。国内でリリースされた曲の他にUtada名義でリリースした曲も披露し、まさに“集大成”となった。演出にはアリーナクラス最大規模のLEDを使い、紀里谷和明もこれに演出監督として参加している。7月28日には、ZEPP大阪で限定シークレットライブ「One Night Magic」を開催。12時間の応募期間にもかかわらず1万通を超える応募があり、プラチナチケットとなった。
2007年 - 2010年 [編集]
2007年2月28日、ドラマ「花より男子2」イメージソング収録の18thシングル「Flavor Of Life」をリリース。14thシングル「Be My Last」 - 17thシングル「ぼくはくま」までのシングルのすべての累積売上を上回り、オリコン週間チャートでは3週連続1位を記録。
2007年3月3日、仕事などお互いの生活のすれ違いを理由に紀里谷和明と3月2日に離婚したことを、U3MUSIC公式サイトの日記「Message from Utada Hikaru/Utada」にて報告した[10]。
2007年7月18日、「Flavor Of Life」の音楽配信が総計700万ダウンロード(内、PC向け配信:プラチナ(25万DL)、着うたフル:トリプル・プラチナ認定(75万DL))を突破し、デジタルシングル世界1位となったことを英EMIが発表した[11]。同月、オリコンが実施した「音楽ファン2万人が選ぶ好きなアーティストランキング」で2004年以来3年ぶりに1位を獲得した[12]。そして2007年10月4日、宇多田の楽曲のダウンロード数が1000万ダウンロードを突破した(1アーティストの年間配信数で1000万件突破は世界初。2007年1月から9月末までの9か月間のみの集計)。
2007年11月には、Ne-Yoからの要望で、Utadaとコラボレーションした「Do You feat. Utada」が配信限定でリリースされた。2007年12月9日、宇多田ヒカルデビュー10周年目に突入。それを記念してデビュー曲「Automatic」の着うたが12月7日から10日まで無料で配信され、4日間で50万ダウンロードを記録した。
2008年2月20日には記念すべき20thシングル「HEART STATION/Stay Gold」をリリース。5thアルバムのタイトル楽曲ともなっている「HEART STATION」は、2月の月間FMオンエアチャートで1位となる1064回を記録、「traveling」の1037回を上回り、自身の最高オンエア記録を更新(またこの月にオンエア回数が1000回を超えたのは「HEART STATION」のみ)。
2008年3月10日から14日まで、デビュー10周年企画第2弾として「First Love」の着うたを無料配信。前回の「Automatic」着うた無料配信の50万ダウンロードを大きく上回る70万ダウンロードを記録。
2008年3月19日、1年9ヶ月振りとなる5thアルバム『HEART STATION』をリリース。オリコン初登場1位で1stアルバム以来6作連続首位獲得となった。2008年5月13日、これまでのアルバム全6作のトータルセールスが2000万枚の大台を突破したことが発表された。売り上げ金額は600億円以上にのぼり、さらにアルバム『HEART STATION』も100万枚出荷を果たし、6作連続でミリオンとなった。『HEART STATION』の収録曲が音楽配信で1500万ダウンロードを突破、CDと配信の合算で62億円を売り上げたことも併せて発表された。
2008年5月21日、21stシングル「Prisoner Of Love」をリリース。5thアルバム収録曲で、ドラマ「ラスト・フレンズ」の主題歌となったことからシングルカットが決定。オリジナルがアレンジされずそのままシングルカットされるのは3rdシングル「First Love」以来。シングルカットにもかかわらず年間チャートで上位となる。また同日からは、携帯電話とPCにおいて自身初となるビデオクリップ配信がスタート(5月21日現在「Flavor Of Life -Ballad Version-」、「HEART STATION」、「Prisoner Of Love」の3曲のみ配信中)。
2008年10月20日スタートのフジテレビ系月9ドラマ「イノセント・ラヴ」の主題歌に、2001年にリリースされた2ndアルバム『Distance』の収録楽曲「Eternally」に再編集を施したリミックスバージョン「Eternally -Drama Mix-」が起用された。主題歌として使用されるニュー・ヴァージョンは、2001年当時にスタジオで何回も歌われたヴォーカルの中から、ふたたび編集を行い、Londonにて新たにMIXを行ったもの。フジ月9ドラマ主題歌起用は2001年の『HERO』以来、約7年半ぶり2度目である[13]。また、オフィシャルHPでは「10周年特設サイト」がオープン。
2009年1月12日付のオリコンチャートにてアルバム『HEART STATION』が42週目にしてミリオンを突破。自身のミリオン突破は2004年の『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』以来5年ぶりで、通算6枚目(アルバム全6枚中)。
2009年1月7日、Utadaとしての新曲「Come Back To Me」のフルサイズ試聴がスタート。2004年の『EXODUS』以来約5年ぶりとなるセカンド・アルバム『This Is The One』を3月14日に日本でリリース。3月24日にはアメリカでデジタル配信リリース。4/11付のBillboard 200で179位に初登場した。また、リードシングルのカム・バック・トゥ・ミーは『ビルボード』のリズミックチャートで39位を記録(日本人最高記録)。また、全米のラジオ番組やテレビに出演しプロモーションをしている。2009年3月19日には宇多田ヒカルとして、初のオフィシャルブック「点-ten-」「線-sen-」を同時発売。ちなみに宇多田ヒカルとUtadaの活動が国内で同時に進行するのはこれが初。
2009年5月12日(現地時間)、アメリカとヨーロッパで『This Is The One』をCDリリース。このアメリカ盤には、北米でも人気を博しているゲームソフト「キングダム ハーツ」のテーマソングを歌ったことによる宇多田のアメリカでの人気を受けて、「光」の英語バージョン「Simple And Clean」と「Passion」の英語バージョン「Sanctuary」(2バージョン)がボーナス・トラックとして追加収録された。「Simple And Clean」はかつて宇多田ヒカル名義のシングル「COLORS」に収録された経緯があるが、「Sanctuary」は2006年に発表されたもののその後一切のリリースが無く、発表から3年を経ての正規音源リリースとなった。また、過密なスケジュールにより宇多田の急性左部へんとう周囲炎が悪化、2週間の安静を命ぜられ、リリース直後のアメリカでのプロモーション・イベントの延期が発表された[14]。
2009年5月16日、前作から約1年半ぶりとなる映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(6月27日公開予定)のテーマソングに決定したことが、フリーペーパー「EVA-EXTRA 02」紙面にて発表された。前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」のテーマソング「Beautiful World」に引き続いての続投となる。なお、主題歌は「Beautiful World-PLANiTb Acoustica Mix」に決定したが、CD収録がなされるかは不明[15]。
2009年5月21日、アメリカで12日にCDリリースされた『This Is The One』が、5月30日付Billboard 200で69位にチャートイン。日本人アーティストがビルボードのトップ100に登場するのは、1986年にロックバンドのLOUDNESSが記録して以来、23年ぶりの記録となった[16]。
2010年1月~2月、Utadaとして初の全米ヘッドライン・ツアー「Utada "In The Flesh" 2010 Tour」を開催した。1月15日のホノルルを皮切りに、北米8都市を回り、最後にイギリス・ロンドンの全10公演を完遂した。ロンドンでは追加公演も行われ、大盛況のうちに幕を下ろした。ツアーに先駆けて2009年12月21日にはアルバム『This Is The One』からのセカンド・シングル「Dirty Desire (The Remixes)」をリリース(アメリカ配信限定)。
【2010/11/07 16:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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